介護より自分の命と自分の人生

2年前母の誕生日祝いで温泉に

最初に。

今日の記事、人によっては嫌悪感を抱く人もいるかもです。あくまでも私個人の考えなので、少しでも、いやーな感じがしたら読み進めないことをお勧めします。

さて、今日は介護について。

私の母は、今年で84歳巳年の年女。

年齢的に、痛みがある箇所は数ヶ所あるものの、生きていく上で自分で、できないことは何もなく、薬も短期的に飲むものはあっても、長期連用しているものはありません。大病に罹患したことも無し。

我が親ながら、あっぱれだと思います。

ただ、いつ何があってもおかしくない年齢になっているのは事実。

今後、何が起きるかわかりませんが、いつも母に伝えているのは、自分のことが自分でできなくなったら施設でお世話になってもらうことは伝えています。

そう、私は母の介護をするつもりはありません。

それは、今まで親や義両親の介護をされている方達をたくさん見てきて、親族だけでの介護は、過酷であり、無理があると感じているから。

もちろん、産み育ててくれた親に恩返ししたい、親が育ててくれたから今の自分が、存在している。

もちろん私もそう思います。

そうは思っていますが、親を思う気持ちと自分のできないことはできないと諦めて人の力を借りることは別だと思っています。

今後の人生の時間が短い人のために、健康で未来の時間が長いであろう人たちが、自分の命や時間を削って介護することが、本当の親孝行と言えるのだろうか?と、考えているから。

子育ての終わりは見えるけど、介護の終わりは見えない。

これも、人の手を借りる充分な理由だと思います。

介護の終わりを願うこと。それは死を願うことになり、その感情に罪悪感を覚えている人もたくさん見てきました。

辛いことから抜け出したい。これは人間として当たり前の感情だと思うのですが、介護の辛さから抜け出したい=死を願うと紐付けされていると、辛さから抜け出すことができなくなる場合が多いと感じています。

そんなとき、私がいつも思うのは「親の死を願っている訳ではなく、心も身体も疲れただけですよ。一生懸命頑張ったから、今は少し休みたいだけ」

自然とそう思ってきました。

そこには、命の順位みたいなものが有る感覚。

精一杯生き抜いた80代。

これから新たなことを始められる可能性がある50代。

どちらかを優先するとしたら、それは50代なのではないかと思います。

今回、前から書きたかったことを書くきっかけになったのは、4月6日長崎県対馬市からドクターヘリで福岡県の病院に86歳の女性を搬送中に、ドクターヘリが墜落、転覆し3人の命が失われたというニュース。

6人が搭乗していて、搬送されていた86歳の女性、86歳女性の息子68歳、医師の男性34歳が亡くなった。

亡くなられた皆さまに、心から哀悼の意を捧げます。

86歳の命を救う為に、失われた34歳医師の命…

亡くなった医師が、搬送された女性の年齢になるまで52年…なんともやるせな気持ちになりました。

この世に生を受けたものは、どんな生き物でも致死率100%です。

自分が、高齢になったとき(すでに初老に足突っ込んでます笑)「命の始末の付け方」を考えられる成熟さを身に付けておきたいと常々思っています。

少し重たい話になりましたが。

高齢になっても健康な身体を維持して、若い人たちに迷惑をかけない自分でいたいと思います。

ではー